炭坑記録画の数々
ヤマの暮らし

大納屋と飯場
昭和39~42年頃

 明治の大納屋と飯場。ハモニカ長屋でなく一戸建が多く、広さは二十、三十坪くらいあり、中庭(土間)があった。一方座敷作りの部屋には頭領とその家族、次の部屋には人繰(ひとくり)、勘場(かんば)、食客(しょっきゃく、居候)などがいる。
一方、建具もないガランとした部屋には、独身者の飯場がうごめいている。何れもヤマからヤマを食いつぶしてきた風来坊が多い。着物一枚持っているのは良い方で、年中フンドシ一つで暮らす輩もいた。夏はともかく、冬は昇坑入浴して帰り、布団を肩からかけて囲炉裏(いろり)の傍らにあぐらをかき、酒を飲み飯を食い、そのまま寝るという状態であった。
 明治三十八年頃より貸本屋がヤマに現れた。講談本が主であり、太閤記、赤穂義士伝、豪傑伝、里見八犬伝などが多く、一週間で(借り賃が)賃四銭だったが、四十年頃には五銭になった。
 バクチは平素打つことが禁じられていた。よって、隠れて打つ、あるいは山に行って開帳しているとの噂であった。
 飯場料は一ヶ月で四円以上五円くらいと大人は語っていた。

 冬の夜はランプ暗くして、本は読めない。



※人繰  入坑奨励、欠勤者補充など、人の繰り込み(入坑調整)を行う者。
※勘場  炭坑直営の売店。

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