炭坑記録画の数々
ヤマの暮らし

募集による出稼ぎ坑夫
昭和40年6月

募集による  出稼 坑夫 独身でない、

米のめし にや 菜(サァー)はいりやんせん。これは明治三十二年ごろ、((廿八年に開坑のヤマ)その以前からであろう)K坑の広島県からの出稼ぎ坑夫が発言したのを、ヤマの標語となって童子でも真似ていた。水晶の如き白米、鼻の光る様な飯、勿体ないと一本一銭のタクアン香々で一人一日の菜にしていたと云う。一足一銭五厘の草鞋ワラジも寐る前自分で作る、五厘銭(セン)でもおしわって使う様に極度の倹約をして相当の貯金を持って故郷に錦を飾った人が何名かあったと云う。その人だちは生来強健な躰の持主であったと想われる。当時のヤマには栄養(ウイタミン)とかカロリーとか言葉にもなかった。何はなんでも満腹でありさえすれは仂けると考えていたのであった。これ等数十名のうち残った者が多く其侭ヤマ人になり子孫までヤマ生活しておるのは珍らしくない。


出稼ぎでも家族づれであった。よって不幸が続けば帰郷が出来ぬ。
ワラジは、できあい売勘場の一銭五厘は一日ももてないが手造りは堅くしめてボロをおりこむから二日位い使えるのであった。人に注文しても二銭入用
当時大盛うどん一杯二銭、沢庵香々一本一銭、逗腐今の倍一丁二銭、白米一升十銭、スボチクワ 一本二銭、醤油一升 七、八銭、ラムネ 一本二銭、

<<前の記録画  次の記録画>>

<<前の10件 21222324252627|28|2930| 次の10件>>

28/33