炭坑記録画の数々
ヤマの暮らし

テラ銭や多額獲得者の寄付による義金4
昭和40年9月

 貧困者救済に当時流行の博奕(バクチ)のテラ銭義金もあった。もちろん、天下の法度(ハット)であり犯罪であるから、絵にするには気がとがめるが、記録であるので描き残す。
 賭博(トバク)は明治四十一年に刑法改正ですべて罰金刑になったことは、別紙にかいたので省く。
 ヤマ人のサイコロ遊びで、勝つ時は「目がでた」と言い、負けた時は「左官(サカン)の手伝い」という。差出しや取られるからである。また、当たれば倍額になるが、それをそのままにして(ウケル)、対手にはら(カマ)せる時は、ヒッカメと言う。資金元手をジギリという。
ヤマのバクチはサイコロ三個を使う、投丁半や三ッづ、花札のオイチョカブなどで、昔の二個のサイコロを湯呑に伏せる。ツボ丁半はしないようであった。偶数奇数で勝負する丁半が一番騒がしく、男らしい。あまり目の出る人には、タンバと言って、コギル(値切る)。従えば、十以上の目は無効にするなどした。ボンゴザ(ゴザ)の上にサイコロを転がす、二回続きはイザイと言う。
 注 このテラ銭義金は、××(某)の為に開帳すると案内で事前連絡する。これはヤマ人より、炭坑周辺の農村の人が多かった。また、賭場あらしをハグリと言う。暴力による強請(ユスリ)があった。

 現今の人(昭和三十、四十年頃)は博奕をうたない。大人の遊びに、パチンコやその他公認の賭勝負は、何種もあるからであろう。

<<前の記録画  次の記録画>>

<<前の10件 2122|23|24252627282930| 次の10件>>

23/33