ヤマの新聞と郵便
昭和39~42年頃
明治三十七年前後 ヤマの新聞と郵便
日露戦争前、ヤマで新聞をトッテおる者(月極)は役人(幹部職員)か大々納屋頭領位のもので、戦後には坑夫でもチラホラ購読するものがあった。その頃は夕刊はなく大阪朝日、毎日は一日遅れであり、地方では福岡日日新聞、九州日報があった。アサヒ、マイニチは少ないときでも六頁、多いときは十二頁あって広告がワリニ多かった。福日、九日は六頁、十頁、一ヶ月五十銭(福日)、三十六銭(九日)で活字の上に絵具刷りをトキドキ出していた。
其頃、新聞広告は仁丹が王座で毎日一頁大、又半頁連続にのっており、次は有田ドラック梅毒専門薬、これは町にもゴム製の疾患部模型が店舗に飾ってあった。次は強壮剤次亜隣、スモウとりが瓶を抱えておる。桃谷順天堂美顔水、ライオン、ツバメはみがきなどが広告欄を飾っていた。(都の花石鹸、大学目薬、其他商品は多数無限)
配達人も足だけ健全なおっさんがしており、現今の様に学生少年ではなかった。(大正後期には新聞代は一ヶ月七十銭であった。ハガキ一銭五厘、切手三銭は永続した。)
郵便も明治、大正時代は十把一束で、人事係室の前に備えてある状さし凾に投げこんであり、封書など破れて中みの見えるものもあり、受取人も不明ものが多かった。昭和になってヤマでも戸別配達になった。
状差は人道坑口の開坑場、取締(人事係室)の表窓下にうちつけてあり、昇坑者が調べるものもあって汚れ垢ついていた。
新聞配達は戸別であるが、明治末期大正始め頃、飯塚町の東方のヤマや部落は片手(右手)のないオッサンが配っていた。立岩、柏森、山内炭坑其他。
明治丗五、六年頃、福日は大閤記、丗九年頃、朝日は赤穂義士伝、小説も神田白滝の大閤記義士伝であった。
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