炭坑記録画の数々
災害、リンチ

上三緒炭坑蒸気卸での事故
昭和40年9月

大正五年頃から
ゴム底地下
足袋が登場し
便利になった。

ヤマの災害による犠牲(殉職)者を
一チ一チ拾いあげると際限がない。
一ツのヤマが開坑シバハグリして開坑。終るまで大小長短はあれど死傷者皆無のヤマはない。
アーシマッタの詞(ことば)の出た時には必ず何人がやらておる。
(コレはショックが太いから記す)
大正四年七月七日午前十一時判明事故
当時 飯塚町上三緒炭坑一坑(麻生太吉氏)系
(鉄管部)蒸気卸で採鉱課長(事)
(坑内主任の)・鈴木氏と(主任補)大廻りとも云う・熊井氏が巡視中にヤマの
犠牲となられたのである。
熊井氏は即死 鈴木氏は所長相羽氏宅で療養中 七月十六日死没
何(いず)れも顔、手の露出部は焼ただれ皮削げ無残であった。

この蒸気卸はすべて排気坑道兼である。重圧(自然)のため盤膨(ばんぶく)れで
パイプの継目から洩れる蒸気が多く上部もなるほど温度が高い 五〇度以上 当時華氏百二〇度をこしていた
この暑熱(しゃくねつ)地獄を常時仕繰っておる。熊谷、長谷部の二人のベテランがおった。それが作業中は下部の門戸を開放して冷風を誘入しても二十分と続かぬ処であった。右の二人はこの坑道に馴れており非常時張板一枚叩き破ればマキ卸坑道に出られるのを何ヶ所も知っていた。
二人の高級_員(役人)もそれは知っていたと想われるが、灯火を消され暑さのため その板バリも門戸扉の所在もわからなかったのであろう、と皆噂さしていた。
説明は残っておるが余り多いから省く

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