炭坑記録画の数々
災害、リンチ

ガス爆発
昭和39年12月

明治中期 ガスケ 筑豊のヤマ人を根底から度肝を抜き大ショックを与えたのは豊国炭坑のヒジョウ(ガス災害)である。明治三十二年六月十五日 二百十名の犠牲者を出した筑豊最初の大変災であった。其頃K坑もガスケはあって毎月二、三人焼けていた。切羽ガスで先山だけやられていた。当時一丁キリハと云う単調切羽であったから翌日まであいておる其間に昇り切羽の切り詰にメタンガスが籠っておる。それを早朝入坑してカンテラをさしつけるからドカンとやられる。それから安全灯になった。しかし図のようなものでない。種油を使用する。腰消子とクラニーであった。

①明治後期 安全灯 火の調整は底にネジがある マッチもライター式
粟粒位の火 カネカタ その侭  下部 盤ぎわ
②安全灯による点検 何%か不明の侭
立長くなる 中かん
③検定器は中小ヤマにはなかった
全体 火となる この際あわてず 静かにおろす  上部 天井ぎわ

ハレツと同時に大爆風が出て坑内全員のカンテラ火を消す

ガスの多い切羽は朝空気が澄んでおるが両眼から涙が出る 空気、鉄を焼いた時の(オハグロ)のニオイがする 仕事をして風が動くと自然とにげる。切羽を休ませる又溜る。
ガスは一回ハレツすると次は強くなると云い。ハレツした時は火が又戻ってくると云い。下部15㌢位火焔がないと云い。外傷より内部に吸い込んでおれは命とられる。経験者は語っていた。安全灯点検は坑夫が自分(で)するのである。

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