炭坑記録画の数々
その他ヤマの仕事
勘引
昭和40年4月
昔のヤマ人 勘引 カンビキ カン 食うたと言う、
現今は検炭係 と言う明治丗年代は勘場と称し後期には勘量と云う、白チョク(ハクボク)一本で数十屯(当時斤量)の勘引をするので、採炭坑夫の怨嗟の的になっていたカンバさん。イレビキ積荷不足は×印に横線をひくボタビキは混ボタによって ○の中に横筋をひく一合、一筋。后山は昇坑後二、三時間で炭札受とりに行く 勘場室は桟橋の近くにある A系のヤマは函の渕に大塊で立グレして山盛積で四、二函(セキ)に半屯位つんでいた、立グレなしは二合引 勘クイは平均二合ひかれていたが時には三合も引かれる事があった。
今日入れもよく硬もなかったよ、ワァー三合づつ勘場と三ツわけだよー 見込勘バイ
住友忠隈炭坑は 勘引なしであったが 故意にボタを多く入れると罰として半函分没収していたと言う。
炭札は個人姓名の自製であったが 明治後期頃より 番号入り金札(ブリキ) となった。
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