山本作兵衛氏と炭坑記録画
納屋頭領と人繰り・取締り

 明治時代の小炭坑には給水(水道)設備がなかったため、飲料水は井戸や湧水にたよっていました。湧水のあるところでは、竹でつくった樋をかけて順番に水を汲んでいました。

▲荒くれ者の多い坑夫をまとめる納屋頭領

 昔の炭坑には納屋制度というのがあって、独身者を寝起きさせた大納屋と妻帯者を収容した小納屋がありました。

 納屋頭領は自分が集めてきた坑夫を担当する責任をもっていたので、自分が面倒をみている坑夫の稼ぎ高の約10%を斤先という名目で事業主からもらっていました。

 荒くれ者の多い坑夫たちを掌握しておかなければならなかったので、頭領は頭も良く男気もあって太っ腹、しかも睨みもきくというような人、つまり相当のボスでないとつとまらなかったといいます。

 その配下には坑夫に入坑を督励して回ったり、翌日の就業予約や欠勤者の補充をしたりする人繰りや取締員、金銭の授受に関する事務をする勘場と呼ばれる人たちがいました。

▲和服を着た人繰りと洋服を着た取締員

坑夫を坑内に送り込むのが頭領の仕事

 いずれも、頭領のためなら一命を投げうつくらいの人たちで、親分子分の間柄でした。とにかく坑夫を坑内に送り込むのが一番の仕事でしたから、坑夫が「体の調子が悪いから今日は仕事を休ませてください」と頼んでも「そうか、病気なら仕方がない。今日は休んで早く直せ」などとは決して言いません。「仮病で俺をごまかすか。この横着物」と罵ったうえに暴力をつかってでも入坑させていたそうです。

 坑夫は入坑しないとリンチを受けるので、よろめきながらも入坑するものの、重労働に耐え切れずに昇坑する。すると、人繰りや取締員は、坑内の係員に「せっかく送り込んだ坑夫をなぜ仕事もさせないで昇坑させるのか」と文句をつける。係員は「入坑しても作業のできない病人(怪我人)をなぜさげるのか」というような問答が毎日のように繰り返されていたといいます。

 人繰りや取締員は、坑夫を一人でも休ませることなく入坑させれば、自分の顔もたち、実入りが良いものだから無理を承知で働かせようとしていたのでしょう。まず、普通の人にはつとまらない役目でした。

 当時の坑内歌に「いやな人繰り邪険な勘場、情け知らずの納屋頭ゴットン」という歌がありますが(もちろん大きな声では歌えない)、全くそのとおりであったといいます。この納屋制度が廃止の方向に向かったのは、明治20〜30年代に大手企業が筑豊に進出してきてからのことです。