日に日に上がる米価。1日に白米1升分の賃金の坑夫も
山本作兵衛氏が26歳になった1918年(大正7年)、第一次世界大戦後の日本は、大戦のもたらした好景気で沸いていたにもかかわらず、米価が日に日に鰻上りに暴騰していました。7月に1升22銭くらいであった米の値段が、1カ月後には50銭以上にもなり、都会では56銭にまでも上ったそうです。
ヤマではインフレで炭価は高騰していたものの、坑夫の稼動賃金は据え置きだったので、1日に白米1升分の賃金しかもらえない坑夫もいたようです。このころはまだ労働組合がなかったので、各納屋頭が率先して賃金の値上げを要求していましたが、なかなか解決できずにいました。
全国に波及した富山の米騒動
▲坑夫が酒をあおってヤマの販売店を襲い、物品を外に放り出しては店をたたき壊している
同年8月、富山県の漁師の暴動に端を発した米騒動は、賃上げ、米価引き下げを要求して全国に波及していきました。各地で不穏な空気が流れるなか、筑豊でも飯塚駅周辺に剣を腰に差した兵士が警備に立っていたそうです。
ヤマの米騒動で一番激しかったのは、田川郡の峰地炭坑だったといわれています。坑夫が酒をあおってヤマの販売店を襲い、物品を外に放り出しては店をたたき壊している状況、ダイナマイトを持ち出して暴れている様子、奪ったお金を分けているところなど作兵衛氏の絵には繊細に描かれています。警官だけでは手が回らなかったため、シベリア出兵のために小倉で待機していた軍隊が、戦闘体制をしいて鎮圧せざるを得なかったということですから、いかに激しかったかが想像できます。
賃上げ要求をしただけでも有罪になる時代の坑夫たち
▲ダイナマイトを持ち出して暴れている様子
この米騒動で筑豊のヤマ全坑が暴れたわけではなく、騒動を起こした炭坑はほんの一部の指折り数えられる程度であったということです。賃上げ要求をしただけでも有罪になる時代でしたから、坑夫が平素から胸に抱いていた、どうしようもない反感が吹き出した炭坑もあったと思われます。
賃上げ要求を所長にしても応じてくれないので、その対策を講じるために大会を開こうと坑夫がボタ捨場に集合していたら、軍隊から解散させられたという話も残っています。当時の法律は、資本家擁護のために制定されていたようなもので、過酷な労働条件のもとに働かされていた労働者にとっては、大変な時代であったことだけは間違いありません。