山本作兵衛氏と炭坑記録画
ヤマの訪間者

現在ではほとんど見かけなくなった訪問者たち

 炭坑の生活にはこれといった娯楽もなかったため、たまに芸人や商人がやってくると人だかりができたということです。現在ではほとんど見かけることがなくなっていますが、作兵衛氏が目にしたことのあるヤマの訪問者を紹介していくことにします。

▲刀をのみ込んでみせる軽業師(街頭手品師)

下駄の歯替え
 現代のように靴類がなかった明治時代には、下駄は最も使用されていた履物でした。筍の皮で作った緒であったため、切れることも多かったそうです。この下駄の歯替え屋は、ヤマにも頻繁に姿を見せていました。

桶の環替え
 桶もバケツのなかった時代には、一家に一つはなければならない必需品でした。そのため、桶の底替えや環替えをする人も多く、ヤマにはよく訪れていました。。

鋳かけ屋
 なべ、かまなど鋳物の修繕をする人で、小型のフイゴを担いでやってきていた最も重要な職業の一つでした。補修には主に真鍮を溶かして流し込んでいたため、家庭にある真鍮製の器具が使用されることが多かったようです。

▲なべ・かまなどの修繕をする鋳かけ屋

キセルの竿替え
 当時は今のような紙巻きタバコを吸っている人は少なく、ヤマの人たちの大部分は刻みタバコでした。老若を間わず腰にタバコ入れを差していた時代でしたので、キセルの竿替えも頻繁に行なわれていたようです。この職人もほとんど毎日姿を見せていました。

按摩
 ヤマにきた按摩は、町でみかけるピーピーと笛を吹きながらの人は少なく、妻や子どもに手を引かれてとぼとぼとやってくる経験の浅い人が多く見受けられていました。

ランプ売り
ランプは当時の夜の必需品で、ランプを売ったり修理したりするのにヤマにきていたそうです。吊り下げ式と据え置き式のランプがありましたが、普通家庭では吊り下げ式がほとんどでした。

軽業師
 街頭手品師のことで、ヤマには時々姿を見せていたようです。手品や刀呑込み、キセルタバコ呑みなどの不思議な曲芸を見せ、周囲の人々を驚かせていました。

▲ハデな衣装を着た「蓬莱豆売」は子どもたちに大人気

蓬莱豆売
 頭の上に乗せた桶に、豆菓子が10粒程度入った三角袋を入れて売り歩いていました。そのお菓子は中に大豆が入っていて固かったようです。桶には豆菓子だけでなく、国旗や海軍旗、風車などが立て並べられていました。しかも、軽業師のような目立つハデな着物を身につけ、団扇太鼓をたたき、おどけた踊りをしながらの商いだったので、子どもたちに人気がありました。

団子細工
 団子の原料は粳米が多かったようで、細い割竹の先に桜の花、菊の花、ミカンのむきかけ、鳥など本物そっくりに作られていました。普通、1個が1、2銭で、高いものになると5銭、10銭するものもありました。技術のいる商売でした。

▲「ブン廻し」はゲーム感覚のくじ。当時も大人気でした

飴細工
 団子細工と同じく熟練を要する商売でした。細い竹を口にくわえて息を吹き込みながら、吹く息の加減や手の巧妙さで、少し温めた茶色の飴で鳥や瓢箪を作り、それに赤や青の色をつけて1本1銭で売っていました。

ブン廻し
 「ドッコイドッコイ」とも呼ばれていました。白い厚紙の中央に心棒をたて、その心棒に細い木(先端に糸で木綿針を吊り下げている)を横にとりつけ、1回1銭で回させていました。針が筋目で止まると景品のお菓子がたくさんもらえました。

くじ引き
 景品は赤や白の色のついた大小のお菓子でした。元結糸で百本くらいの束を作っていて、その中の10本程に一、二、三と数字を記入している紙片がついていました。前記のお菓子を数字に振り分けておいて、紙片のついている当たりの糸を引くと、その番号のお菓子がもらえるようになっていました。「1回1銭で1円のお菓子が当たる」と囃したてていたものの、なかなか当りくじは引けず、しらくじ(ハズレ)ばかりでした。

昆布売り
 紺絣りの着物に紺の手っ甲脚半、草鞋履きという格好で、昆布を入れた竹ザル(口が丸く底が角型)を頭の上に乗せて売り歩いていました。値段も安く品も良いということでよく売れていました。大島からの女性が多かったようです。

▲頭に竹ザルを乗せた昆布売り。左は唐辛子売り。

ノミ取り粉売り
 「ゆうべ喰われた敵打ち〜ノミ取り粉 ノミ取り粉」とふれて歩いていました。一個10銭(ブリキ缶入り)で、これは米1升分の代金と同じだったので、なかなか買うわけにはいかず、知ってか知らずかノミ取り粉を売る商人もたまに姿を見せる程度でした。除虫菊でつくってあったため、目や鼻に刺激が強かったということです。

ショウガ売り
 大型の深い竹ザルに入れて売っていました。当時はぜいたくな食料といわれていましたが、青魚料理には不可欠の珍味でした。

麩売り
 大きなザルに山ほど積んで売っていました。小麦が原料で朝のみそ汁には欠くことのできないものでしたが、作兵衛氏はあまり好きではなかったようです。

▲魚の行商人。当時のヤマは鮮魚店がなく、行商人から買っていました。

飴湯売り
 飴とカタクリ粉をお湯でとかしたもので、1合が1銭から2銭くらいでした。

氷売り
 真夏の2カ月間くらいの季節商売でした。砂糖水をかけただけのかき氷でしたが、当時はアイスクリームなどがない時代でしたから入気がありました。リンを振って「寒氷、寒氷」と言いながら売っていました。大盛2銭、小盛1銭でした。

魚行商
 当時のヤマには現在のような鮮魚店がなかったので、魚は行商人から買っていました。しかし、冷凍貯蔵の方法もなく、しかも馬車による運搬でしたから、夏に生魚をロにすることはできませんでした。必然的にヤマに運ばれてくるのは、干物や塩物になった魚が中心でした。

▲ヤマの人々を驚かせた山伏の水浴び

山伏
 英彦山の修験者が大部分で、法衣を身にまとって背中に笈(おい)を担い、青や赤のひもや房がついた法螺貝(ほらがい)を手にもっていたそうです。門口から入ると法螺貝を吹き鳴らし、その間に国家安穏(あんおん)、五穀豊穣、御願成就、家内安全、商売繁盛、家運幸福などを天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)や神功(じんぐう)皇后に祈願していました。また、山伏は寒行と称して、血も凍えつくような寒い冬にフンドシ一つになって、呪文を唱えながら担い桶に入った水を全身に浴び、周囲の人々を驚かせていたといわれています。

六部
 六十六部とも言われていて、大きな仏壇を背負い鉦をたたいて歩いていたということです。見ていた人たちは、力の強い法印さんと思っていたそうです。

▲稲荷様(カラクリの白キツネ)について回る子どもたち

遍路さん
 巡礼とも呼ばれ、上黒、下白の衣を着てアジロ笠(がさ)をかぶり、手には白の手っ甲、足には脚襦絆(きやはん)を巻き草鞋(わらじ)をはいていました。炭鉱に来る遍路は職業的な人もいたようですが、中には相当の修行を積んだ修験者も見受けられたそうです。

淡島様
 この神様は女神で、腰から下の病気をなおすのに霊験があったと言われています。病気平癒(へいゆ)の時にはそのお礼として、髪飾りや櫛(くし)などの装飾品を寄進していました。

稲荷様
 カラクリによって口や目、鈴を持たせた手、足が動くようになっている白キツネをつれて各家を回りました。キツネをつかう人は土間(庭)にいて、キツネを畳の上に立たせ、神通力によって商売繁盛、幸運、病魔退散、勝負事には勝ち進むなど吉祥事を唱えていたそうです。

▲ヤマの人から好まれていた鍾馗大臣

鍾馗(しょうき)大臣
 正月15日まで家々を回っていたようです。ワラ縄で造った鉢巻きをし、木の棒で戸口の板や柱をたたいて気勢をあげ、「やあ〜鍾馗が立った、この家は悪魔は退散、福神は入来する、やあ〜福は来る、災神疫神は逃げ去った」と大声で叫んでいたそうです。縁起をかつぐヤマの人たちは、笑みをもって迎えていたといわれています。

春駒(はるこま)
 正月になると炭坑に姿を見せていた芸人です。鈴と鳴子で調子をとりながら、「ハァ〜目出度い(めでたい)なあ。春駒や福の神が舞い込んだ。駒が勇めば気も勇む、咲いた桜に何故(なぜ)駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」などと歌い踊りながら各家を回っていました。

▲春駒

お獅子回し
 普通、一般にいう獅子舞ではなく、正月に限らず時々一人でヤマにやってきては、家の庭で悪魔払いのために簡単な獅子舞をしていたそうです。

猿回し
 猿回しが土間で小太鼓によって調子をとり、これにあわせて猿は畳の上で赤白模様の棒や環を使って色々な芸をして見せていました。子どもたちはその後をついてまわっていたそうですが、ヤマの人は腰綱をつけられている猿の様子が警察に捕まったバクチうちを連想するとかで嫌っていました。

易者
 人通りの多い街道に店を出している易者ではなく、縁談、恋人、待ち人、運気の判断と調子よく触れ歩いていたそうです。中にはおもしろ半分に見てもらう人もいたようです。

▲猿回しは子どもには人気があってもヤマの人から嫌われていた

辻占(つじうら)売り
 夕方から夜にかけてやってきて、おみくじのような文句が毛筆で書かれているお札を売っていた商売で、貧困家庭の人に多かったそうです。冬の寒い夜でも震えながら、ちょうちんを灯して草履をはき、「運気、縁談、恋の辻占い」と寂しそうな声を張り上げて売り歩いていたそうです。

阿呆陀羅経(あほだらきょう)
 右手に四寸(約12センチメートル)くらいの叩き木(たたきぎ)を持ち、左手の指には彦山ガラガラのような小型の木魚を3、4個はめて、ポカポカポコポコ、チャカポコチャカポコといった調子で「畑に蛤(はまぐり)掘ってもナイ 坊主の鉢巻(はちまき)ゃ締まりがナイ 砂に小便溜(だま)りがナイ 一人息子は働かナイ 馬に耳風さわらナイ」などど、こっけいな文句を浪花節(なにわぶし)や都々逸(とどいつ)まがいでとなえていました。

▲阿呆陀羅経(右)琵琶歌(左)などヤマを訪れた芸人

連歌師
 男二人か男女一人ずつといった二人組でヤマに来ていました。一人は洋琴、もう一人は尺八、月琴(げっきん)などを演奏しながら、掛け合いで流行歌を歌ったり、謎かけ問答式の歌詞を流すやらして、流行歌の小型本や時事珍談を書いた印刷物を売っていました。当時はヤマでバイオリンを見ることはなく、ギターなどは夢にもなかったそうです。

琵琶歌
 座頭さん(目のみえないお坊さん)が多かったそうで「昔、昔、武蔵坊の弁慶は京の五条の橋の上にて牛若丸と一騎打ち、弁慶のなぎなたは身が八尺(約2百64センチメートル)で柄が八尺、切れる巾なりや戸板の如し」などと琵琶を弾きながら歌っていました。日露戦争(1904年)後に筑前琵琶が誕生してから、一部の紳士・淑女にもてはやされるようになりました。

▲連歌師。掛け合いで流行歌を歌ったりしていました

浄瑠璃(じょうるり)
 義太夫(ぎだゆう)とも言って非常に流行していました。なかでも近松門左衛門の創作による太閤記、忠臣蔵、朝顔日記、三勝半七などは大変好評でした。三味線の音は一種独特の韻を出していたと伝えられています。

あやつり人形くぐつ師
 前述の浄瑠璃の流行ととともに人形芝居も大流行し、いたるところでよく演じられていました。ヤマにきていたのは、普通、一人で浄瑠璃を語り、一人で人形をあやつるといった一人行脚(あんぎゃ)の人形遣いで、人形の舞台になるつづら型の人形箱を持参していました。

くじ引き菓子

▲明治33年ごろ、蓄音機は「歌をうたう器械」と珍しがられていました

 ラクガンや豆入りオコシ飴などを店頭に飾って人を集め、1回1銭でくじ(厚紙をはぐと一等、二等、三等と数字が記入されている)を引かせていました。百回引いて一、二回一等が当たるくらいの確率でした。ハズレの人には八厘程度のお菓子を渡していたそうですが、最後まで一等の当たりくじを入れないような悪辣(あくらつ)な商人もいたそうです。

山師(ヤシ)
 明治時代のヤマにはヤシが時々姿を見せており、なかでも歯の薬売りが多かったようです。人の目を驚かせたのには、ガマの脂売りがいました。自分で手を切ってその傷口に脂を塗り、たちどころに血を止めるというものでした。気合術や居合抜き、鉄の棒を小指で曲げたりなどする一種の奇術などに人だかりができていました。他には法律や流行歌の書籍類を売る人などもいましたが、共通していることは、みんな雄弁さととんちを持ち合わせている人たちばかりでした。

▲お祭りの時だけ見かけることができる「ノゾキ」

蓄音機
 明治33年の秋ごろ、初めて目にしました。ヤマの人たちは「歌をうたう器械が現われた」と珍しがって集まり、「さすがに西洋は進歩国だ。20世紀文明の卵である。」などと感心していました。1回2銭でゴム管を両耳にあてて米山甚句やサノサ節などを聞いていました。当時は五厘切符を1枚もらって喜んでいた時代でしたから、2銭は大金でしたので、子どもたちは聞きにではなく好奇心から見に行っていました。

ノゾキ
 紙芝居と同じように絵を見せるのですが、レンズ(望遠鏡)をとおして見るようになっていました。珍しい事件や変事などが主として題材になっていましたが、なかには昔の有名な狂言芝居を描いているものもありました。絵看板だけでも豪華なもので、一人または二人で表の板を竹で叩いて調子をとりながら絵の解説をしていました。このノゾキは普段は見かけることはなく、ヤマにはお祭りの時に来ていました。

▲軽妙な語り口で人々を笑わせていた陶器の叩き売り

陶器の叩(たた)き売り
 「この茶碗が五つで二十銭だー。その辺にある物とは違うぞ。音を聞け、金のような音を出す。昔だったら領主のお墨付きがなければ買えない品だ。瀬戸物でなら一つ十銭出しても買えないものだ。博覧会でなら十円の正札がつくぞ。それとも一つの茶碗で家中の者が食うとるのか、沢庵香々(たくあんこうこう)ならつまみ食いもできるが、お粥を手づかみすると火傷(やけど)するぞー。」などと囃立(はやした)てながら集まっている人たちを笑いに巻き込んで陶器を売っていました。

唐辛子売り
 「辛くて甘いのがトンガラシの粉、甘くて辛いのがカラシの粉」と小型の鈴を鳴らし、長さ約90センチメートル、径が30センチメートルくらいの竹に紙を張って作った胡椒(こしょう)の模型を肩からひもでつって、ヤマの納屋を回っていました。

▲ハイカラなヲチニの薬売り

反物売り
 呉服の行商人のことで、大型の紺色をした風呂敷に包んだ品を両肩にかけていました。一軒ずつ回っては「反物の御用はありませんか」と言い、「お金がないからいらない」と断ってもなかなか立ち去らなかったようです。同じ反物でも家の人との問答や値段の交渉によって売値が違い、一円出して買う人もいれば同じ物を六・七十銭で手に入れる人もいました。

薬売り
 越中富山の薬が有名でした。毎年冬に置き薬を入れ替えに来て、当時の陸海軍人の将官などを描いた薄い絵紙や紙風船などをサービスして子どもたちを喜ばせていました。日露戦争(1904年)後に黒地の洋服に、赤に「日本一のヲチニ薬局」という白文字入りの腕章を左腕にはめた薬売りがよく来るようになりました。手風琴(アコーディオン)を弾きながら「大阪西区は板地堀、日本一薬舗で名も高い。ヲチニの効能はー、爺(じい)さん婆(ばあ)さんの虫下し、頭痛、足痛、腰痛、子どもの鼻だれ、よだれくり、ふくんで直ぐ効くこの薬、ヲチニー」などと行進曲口調で歌っていました。
 行商人の先端を行くハイカラな薬売りでしたが、明治の末期ごろからいつとはなく姿を見なくなりました。

▲貸本で人気のあったのは講談もの。暗いランプの大納屋で読むのも一苦労でした。

虎の巻
 アンコを麦の粉団子で楕円形にくるんだお菓子で、巻物を型どったような形であったところから虎の巻と呼ばれていました。「お虎さんのボヤボヤ」と叫んで売っていました。味はアンコの甘さがしつこかったということです。

牛肉売り
 ヤマには時々しかきていませんでしたが、当時は牛を食べるのは野獣のようだと言って食わず嫌いの人が多いようでした。また、一斤二十五銭という高値だったので、家族の多い家になると口に入れることができませんでした。

餅売り
 現代の餅よりはるかに大きかったようで、一人で十個も食べると豪傑と言われました。またアンコでくるんだ直径三センチメートルぐらいの丸団子が5個串にさしてある、つなぎ団子というのもありました。値段は一個いずれも一銭でした。

▲ヤマにはいろいろな商人が訪れていました。左は「ショウガ売り」計り売りをしていました。

鉋飴(かんなあめ)売り
 振り回すとガリガリと鳴る竹製の器具で子どもを集め、十センチメートルぐらいの串に削った飴をつけて売っていました。一本一銭でした。

貸本屋(業)
 一番人気があったのは講談小説で、神田伯竜の太閤記、赤穂義士伝、里見八犬伝、他の小説家では玉田玉秀斎(ぎょくしゅうさい)、石川一口(いつこう)、旭南陵(なんりょう)、村井玄斎(げんさい)、村上浪六(なみろく)、伊藤痴遊(ちゆう)などが有名でした。借料は一冊一週間四銭ぐらいで、明治の末期には五銭になっていました。

雑商人
 ヤマでよく見かける商人で、カツオの塩辛、小エビの漬けあみ、醤油の実などすぐに食事のおかずになるような物を売っていました。

野菜売り
 農家からの直売で、大根・蕪・里芋・唐芋など安いうえに盛りが良いと評判でした。

▲数え歌売りの芸人。門口に立ち、美声をはりあげて歌っていました。

漆器類商
 鏡台、吸い物椀、お膳、本箱、戸棚、火鉢、タンスなどを売る商人で明治・大正の時代というのに月賦でも販売していました。

力士の廃者
 相撲を引退して職がないのか、はたまた力士になれなかったような人が各戸を回り、手ぬぐいをのし紙に包んで、一銭、二銭のお金をもらっていました。手ぬぐい一つで命をつないでいるようでした。明治以後見かけることはなくなりました。

祭文語り
 現在の浪花節ですが、ウカレ節・オカレ節ともいわれていました。主に不幸な人への義援金を集めるため、大納屋に語り手を呼んで開催されていました。直方の安平さん、飯塚の一本舎という語り手が有名でした。

▲ヤマの大納屋のようす。独身が多く、着物も持っていない人もいました。この大納屋に語り手を呼んで義援金を集めることもありました。

数え歌
 女の人が「一つとせ〜」の節に合わせて、時の珍事を歌いながら各家を回っていました。その歌詞は半紙を四つ折りにしたものに書いてあって、一枚二銭で売っていました。創作は福岡中島町の原田作太郎という人があたっていました。

氷売り
 真夏の2カ月間くらいの季節商売でした。砂糖水をかけただけのかき氷でしたが、当時はアイスクリームなどがない時代でしたから入気がありました。リンを振って「寒氷、寒氷」と言いながら売っていました。大盛2銭、小盛1銭でした。

小間物商
 底の浅い長方形の箱を数段重ねたものを風呂敷に包み、主婦を相手に商売をしていました。クシ、コーガイ、カンザシ、ビンツケ、モトユイ、マエガミハサミなど頭髪の飾り道具はきれいでした。

打廻り
 劇場で芝居の興行がある時、宣伝のためにヤマにきていました。飯塚には養老館、飯塚座などがありました。

新聞配達
 当時は朝日新聞、毎日新聞のほか、地方新聞として福岡日々新聞、九州日報がありましたが、まだ夕刊はありませんでした。しかも、朝日と毎日は一日遅れの配達でした。

▲日露戦争の情景。ヤマにくる「ノゾキ」の絵を通して、ヤマの人たちは世情を知ることもできました。

郵便物
 ヤマにきた郵便物は、全員の分をひとまとめにして事務所や労務係詰所の前に提げてあった箱に入っていました。封書などは袋が破れて、中が見えていることもしばしばありました。昭和になって普通選挙が開始されたころに、各戸に配達されるようになりました。

虚無僧
 本当の虚無僧の姿は法衣をまとって手っ甲・脚半をし、胸のところにお布施としてもらったお米を入れる箱をさげ、深い編み笠をかぶっていました。しかし、ヤマには俄(にわ)かづくりの虚無僧もきており、笹の葉のついた青竹を三、四尺に切ったものを尺八がわりに口にしているような人もいました。当時、博多の一チョウ舎という虚無僧の大組織がありました。

▲ヤマの新聞と郵便。郵便は明治・大正時代は事務所前の箱に投げ入れられていました。

乞食
 足の不自由な人が多かったようです。ボロボロの着物を身につけて戸口に立ち、手に持ったお椀に残り物などをもらっていました。暮らす家もなかったようで、河原やお宮のお堂などに寝ていました。なかには体が不自由なふりをして人々の同情をひき、金品をもらうような不届きな人もいました。

時計の修繕師
 坑夫で時計を持っているような人はまだいませんでしたが、幹部級の職員が持っていた懐中時計や事務所・詰所などにある時計の分解修理をしたり、油を差したりしにきていました。



以上が、山本作兵衛氏が明治時代に目にし、記憶に残っていたヤマを訪れていた商人、芸人、行者といった人たちです。現代に生きる私たちが見たことのある人々や全く知らないような職種まで、数多くの人々がヤマに入ってきていました。ヤマの人たちは、姿を見せるこれらの人たちとの会話の中から、世の中の動きを知っていたのかもしれません。

ヤマの生活の一枚:低層炭での後山
 石炭の層が低いと石炭の搬出が困難を極めていました。先山の進行(石炭採掘)は早いうえに、天井とスラ(石炭運搬用の木箱)との間隔が狭いため、後山泣かせであったそうです。「尺なし」と呼ばれる低層では天井とスラとの間が、15センチメートルくらいしかなかったようです。