山本作兵衛氏と炭坑記録画
ヤマの青年団

▲提灯をもって町内を見回る青年団

町の風紀が乱れないように結成された青年団

 明治の後期ごろになると、月に5千トン以上出炭している炭坑のなかで、社会的な知識をもった理解力のある人事係長がいたころには、奉仕作業などを行う青年団(15歳以上の男子で構成)が結成され始めました。

 上三緒坑には明治41年に青年団が誕生しました。夜になると實践会と書かれてある提灯をもって町内を見回るなど、町の風紀が乱れないように活動していました。青年団の結成によって、若者の考え方がしっかりとして、炭坑の規律が正しくなったように思われました。

 しかし、ヤマの青年団は長続きしませんでした。提灯が少し古くなるころには自然に崩壊していくことが多かったようです。その理由としては、炭坑で各々がついている業務がバラバラであったため、採炭休業日でも全員集合することができなかったということ、一日一日の仕事での疲労度が高く、集合する人の足が遠ざかっていたということ、移動坑夫が多かったことなどが考えられます。

盆休みを利用した演劇のけいこに励む青年団

▲芝居のけいこに励む青年団

 青年団のなかには盆休みの三日間、小屋をつくって芝居(演劇)をしていたところもあります。盆まであと一ヶ月という時期になると、晴天の日には昇坑するやいなや疲れも忘れたかのように遠くの山林に集まって、自分たちで猛稽古に励んでいました。

 この芝居の場面は、正義の快男児・山岡金之助が悪党・マムシの源太の不意打ちによって眉間を割られたため、興奮して復讐に出ようとするところを女房や子分が必死になって押しとどめている場面です。

 当時の青年の服装は、ネルのシャツに袷(裏のついた着物)に下駄履きでした。夏は白地の浴衣を着ていました。将校マントは、明治末には流行していましたが、大正期になるとあまり見かけなくなったそうです。帯、兵児帯、しごき帯などは白と決まっていましたが、大正元年9月13日の明治天皇御大葬祭時の喪章から黒となりました。