山本作兵衛氏と炭坑記録画
川舟輸送から鉄道運搬へ

若者のあこがれの的船頭「キリクサン」

▲陸蒸気をうらめしげに見る船頭さん

 遠賀川は早くから農作物などの輸送路として重要な役割を担っていましたが、江戸時代に石炭が商品化され、炭田が開発されてくると川ひらた(五平太舟)による石炭輸送の大動脈として一躍脚光を浴びるようになりました。

 そこで働く船頭も「キリクサン」と呼ばれて、当時の若者たちのあこがれの的になっていました。ところが、明治20年代に入ると、川舟による輸送力に限界が見えはじめ、鉄道が敷設されるようになっていきました。

 「汽笛一声新橋を〜」と鉄道唱歌にあるように、明治5年(1872)10月、わが国最初の汽車(陸蒸気)が新橋〜横浜間で走りました。九州では明治15年(1882)ころから、経済発展の動脈ともいえる鉄道敷設の声が、地元財界を中心に高まり、新橋〜横浜間に遅れること17年後の明治22年(1889)九州鉄道による博多〜千歳川(筑後川)間が最初のことです。

▲逆流のなか川ひらたを引っ張って戻る船頭さん

 筑豊では明治22年、嘉麻・穂波・鞍手・田川・遠賀5郡の石炭業者が、資本金百万円で筑豊興業鉄道会社を設立して鉄道敷設を開始しました。川ひらたでの石炭輸送に行き詰まりが生じていたこともあって、川舟船頭の激しい抵抗にあいながらも工事を進め、明治24年(1891)に若松〜直方間が開通しました。

 このころ川舟船頭と鉄道会社側との衝突を題材に義理と人情の世界を描いているのが、岩下俊作原作の『竜虎伝』や火野葦平の『花と竜』などです。若松〜直方間に続いて明治26年(1893)には直方〜飯塚間、直方〜金田間も開通しました。

 また、豊州鉄道によって明治28年(1895)に行橋〜伊田間、明治29年(1896)に伊田〜後藤寺間、明治32年(1899)には伊田〜豊前川崎間が開通しました。しだいに筑豊の石炭生産地には筑豊独特の網の目のような線路網が出来あがっていきました。

 川舟輸送と鉄道運搬の比が逆転したのが、明治27〜30年ころのことです。鉄道だけではなく、港の方も明治23年の若松築港会社の創立によって、若松港の埠頭設備が着々と整備され、陸海輸送体制が充実していきました。これにともなって、筑豊の石炭産業は黄金時代を迎え、国内における石炭生産地(筑豊炭田)としての地位を不動のものとしていったのです。

ヤマの生活の一枚:入坑姿
 明治中期ころの入坑の様子です。他の組との競争意識もあって、決められている入坑時間よりも早く下がる人が多かったそうです。先山の必需品はツルハシとカンテラ。後山は弁当、引綱、炭札でした。この絵のように先山と後山がそろって坑内に下がるのは、子どものいない新婚夫婦か親子、兄妹がほとんどでした。普通、世帯をもっている後山は、遅れて下がったということです。(先山が掘った石炭がある程度たまるまで家事をしていたものと思われます。)