炭坑記録画の数々
ヤマの暮らし

売勘場
昭和40年4月

昔のヤマ人  売勘場  明治後期には 分配所、日鉄は購売会、現今は 配給所、ヤマの売店。
A系も坑主直営なれど 市価より安くはなかった。古河下山田坑は大納屋が売店であった。 売勘場の番頭は米ハカリに妙技を振う 平素の熟練で枡マスに米を尠なくいれる 一升 六四八二七粒(ツブ)あるのを六万粒位にハカル、それはマスの中で米が踊っておると言う。現在目前でハカッタのが二十分の一以上 スクナイから 主婦はハカリがわるいと不平を言うが余り文句を云へば売らないから泣ネイリ。近所には米店もなく、あっても切符では売らない。一升、五合枡の外溜売りはしない、溜売しても其日暮しには買えない。(番頭は暇あれば米はかりの猛練習をやっておる)
当時明治三十二年白米一升金十銭であったが三十三年に十二銭にあがり オカミさん連は悔んでいた。酒も水神様の方が多いのが一升丗五銭もしていた。
巻煙草ヒーロー十本入、パイプ別付三銭五厘ワリア(ヤ)イ高値であった、キザミ國分、天狗、が多く四匁三銭。ルーナ、サンライスなどあったがヤマには見えず。

トテもハカリがワルイのよ―

煙草 ヒーロー ツバメ歯磨 都の花石鹸

売勘場は
米、酒、醤油、油、味噌、塩、煙草、石鹸、手拭(タオル)、茶、砂糖、布(キレ)類 ツルの柄、エビジョウケ ガンヅメ 草鞋ワラジ 針金 其他日用品で。
外来商人公認 他の店は之以外の品でないと販売できなかった
鮮魚、野菜、菓子、果物、麺類るい。
その頃 醤油の密売者がヤマを訪ずれ取締りに捕へられ アブラをとられる事がサイサイあった。
A系のヤマは夏、冬をとわず 午后八時の汽笛ととも酒類の販売禁止で 夜の来客に酒を出す事はできなかった。

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