炭坑記録画の数々
ヤマの暮らし
中小ヤマの給水設備
昭和39~42年頃
明治中期の中小ヤマには、給水設備がなかった(大正初期頃には小ヤマ以外は(給水設備が)完成した)。
(中小ヤマは)全て井戸水であった。その井戸も、梅雨期頃は(水の)溜まりがあるが、枯渇季になると(井戸の)釣瓶が動かなくなるぐらい(水がなく)、いつも(井戸は)底を見せている。また井戸を掘っても、水がでないヤマが多かった。近い所で、五百㍍あるいは千㍍もの遠距離まで(水を)汲んでいた。担桶(タゴ)は、一荷で三十六㍑(二斗)。
子供も十才ぐらいになると、水を汲んでいた。棒を肩にのせると痛いから、両手で(棒を)支えて、大人の半分ぐらい(の水を)荷なう。
タゴ(担桶)やさげおに手をかけると、水がこぼれる。
明治三十二年頃、大手の住友忠隈炭鉱には給水があった。納屋二、三棟ごとに一ヶ所ずつ蛇口(ストップ)が設置され、水は坑内からポンプであげていた。上水の清水であったらしい。さすがは大ヤマで、近所の集落である南尾(旧穂波町)までも送水していた。
※さげお 下げ緒。ここでは担ぎ棒に桶をぶらさげるひものこと。
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